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大阪地方裁判所 昭和37年(ワ)1869号 判決

原告

山本ヨシエ

右訴訟代理人

渋川鶴蔵

被告

奥村利夫

右訴訟代理人

山本仁

被告

三田裕

右訴訟代理人

四川晋一

主文

被告等は連帯として原告に対し金二百九十万円及びこれに対する昭和三十七年六月十八日より完済するまで年五分の割合による金員を支払え。

原告はその余の請求を棄却する。

訴訟費用は被告等の負担とする。

原告に於て金二十万円の担保を供すれば勝訴部分につき仮りに執行することができる。

事実

原告訴訟代理人は、被告等は原告に対し連帯して金三百万円及びこれに対する訴状送達の翌日より完済するまで年五分の割合による金員を支払え、訴訟費用は被告等の負担とするとの判決並に仮執行の宣言を求め、その請求原因として次のとおり陳述した。

一、被告奥村は肩書住所で院長として奥村病院を経営する医師であり、被告三田は被告奥村の被用者として右奥村病院に勤務していた医師である。

二、原告は昭和三十一年四月頃より和泉市三林町一二九番地辻本織布株式会社に就職し勤務していたが、同年十一月頃から足がだるく右足の筋がつるので、被告奥村医師の診察を受けたところ、胸推カリエスと診断されたので同年十二月三日頃より被告の奥村病院へ入院し治療を受けてきた。

三、ところが入院中の昭和三十二年三月初頃より腹痛を感じたので被告奥村の診察を受けると虫垂炎と診断された。そこで被告奥村のすすめで虫垂炎の手術を受けることにしたが原告は被告三田の技術に信を措けず特に被告奥村に対し「先生が自ら手術して下さるならよいが外科の三田先生(被告三田)の手術では気がすすまない」と希望を述べておいた。昭和三十二年四月五日に虫垂炎の手術を受けたが施術者は被告奥村医師と思つていたところ原告の希望に反し被告三田医師であつた。

四、原告はその手術の際被告三田より麻酔の注射を受けたがその途端に足がピリピリとふるえ、激痛のため悲鳴をあげた。この激痛は手術後もやまず痛みどおしであつた。その数日後に被告等は原告に立つてみるように云つたが原告はどうしても立つことができず且つ激痛はつづいた。その直後より原告は被告等よりイルガピリンの注射を五日間に亘つてされた。その結果原告の両足は麻痺し全然動かなくなり立つことも歩行することもできなくなつた。

五、そこで原告は被告奥村医師に転院のうえ治療したいと申入れたところ、同被告は原告に対し「わたしの病院の失敗だから責任を持つてなおしてあげる」と云うので原告はその言に従い引つづき昭和三十三年七月九日まで被告奥村の病院で治療を受けたが、その間同年六月に至つて突如として被告奥村医師は原告に対し退院して貰いたい、親兄弟を呼べと云い出した。然し原告は全治しないのに退院できるものでなかつたところ同月二十二日被告奥村は原告に対し白浜温泉病院で充分加療を為しその後再び当院へ復院するときはこれを受入れ収容する旨確約したので、原告は同年七月十日より国立白浜温泉病院に転じ、治療を受け現在に至つたが全治せず左足は麻痺のため不自由で原告は生れもつかぬ跛者となつてしまつた。

六、原告の症状につき

(一)  国立白浜温泉病院谷沢龍一医師は昭和三十六年六月二十二日左記の如く診断した。

(1)  病名 左腓骨神経麻痺

(2)  下肢周径右(健側) 左(患側)

下腿三三、〇糎 二六、〇糎

大腿四六、五糎 四四、五糎

左下肢筋萎縮を認める

(3)  左足関節運動 自動 他動

背屈 不能 一〇〇度

底屈 一三〇度 一三〇度

(4)  左足指運動

第一指自動背屈僅かに可能なるも他指の自動背屈は不能自動底屈は全指共僅かに可能

(5)  歩行

麻痺性跛行あり、歩行時麻痺性類足を示す。

(6)  知覚障碍

左下肢及下腹部に中等度乃至軽度の知覚鈍麻あり(但し左大腿伸側は中等度の知覚過敏を示す)

右大腿上半部屈側に中程度の知覚鈍麻あり

常に左下肢全体に冷感を訴う

以上の症状は昭和三十三年七月十日当院入院以来現在迄の治療により固定するに至つたもので現状の恢復は不可能である。

(二)  公立和泉病院舌津直治良医師は昭和三十六年十二月一日に左記の如く診断した。

(1)  病名 左下肢弛緩性麻痺(背髄性)

(2)  現症

臍より下部は知覚鈍麻し殊に左側が著明で左下肢は全般的に知覚鈍麻す。痛覚も左は右に比して鈍麻す臀部温度覚が弱い。左下肢は弛緩性麻痺を呈し膝蓋腱反射は右側亢進し、左側は弱い。アキレス腱反射は右平常左は弱い、膝蓋搐搦及足搐搦はない。バビンスキー氏現象は両側共陰性、左下肢は特に下腿に於て左の如く筋萎縮が著明である。

大腿周径右四四、五糎左四三、〇糎(膝蓋骨上縁より一〇糎上方に於て)下腿周径右三三糎左二六糎(腓腸筋腹部に於て)下肢の屈曲位よりの伸展力は右側は略正常で左側は腱側より弱く検者の片手で阻止し得る左足は背屈運動不能にて右足は正常である。左下腿は右に比して温度が低い。腹壁反射陰性膀胱障碍著明でないが直腸障碍は軽度に存し下剤を服用しないと排便なく左腸骨窩にグル音を融知す、

尚脳神経、上肢には全く異常を認めない。

以上の所見により第三腰髄断区附近に障碍があるものと思われる。

七、原告の蒙つた左下肢麻痺症状は固定し全治不能となつた。これは被告らにより施された腰推麻酔の注射、それにつづくイルガピリンの注射の仕方が悪く安全部位以外に為されたことによるものであり、被告らの過失に基く。仮りにイルガピリンの注射によるものでなく被告三田の施したる注射にのみ原因するとしても被告奥村は使用者として民法第七一五条による責任を免れない。

八、原告の蒙つた右注射事故による治療につきその事故発生の昭和三十二年四月五日より昭和三十五年六月末頃までは原告の健康保険によつて、同年七月頃より同年十月末迄は民生保護を受けて支払い、同年十一月一日以降は被告の奥村医師の申出により民生保護を取消し同被告がその責任に於て支払をすることになつたが同被告は昭和三十六年八月分迄を支払ひその後の入院費用の支払をしなくなつた。

九、原告は本件注射事故により次のとおり損害を蒙つた。

(一)  金六十万円、本件注射被害を受けなければ原告は従前より勤めていた辻本織布株式会社に勤務し昭和三十二年五月一日より昭和三十七年四月分迄月々最低金一万円の割合による六十カ月分の給料として金六十万円を得られたわけであるが本件事故の為これを喪つた。

(二)  金二百万円、原告は昭和七年五月五日生れの女性で本件注射被害を受けることがなければ肢体健全で今後二十五年間辻本織布株式会社に勤務することができた筈であり、この間に得べかりし月収は最低額の金二万円を基準としても金六百万円となるが、ホフマン式計算によるとその現在利益は金二百六十六万円となるのでこのうち金二百万円の支払を求める。

(三)  金四十万円、原告は二十五才の妙齢にして跛者にされ女性としての美を失ひ又人生最高の幸福であるべき結婚生活を不能とされその精神的苦痛は堪え難く金銭を以てこれをいやし得べくもないがこれを評価するとせば少くとも金二百万円を下るものではない。本件ではそのうち金四十万円の支払を求める。

以上合計三百万円及びこれに対する訴状送達日の翌日より完済するまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

十、被告等の消滅時効の抗弁は否認する。

なお被告の奥村医師は原告の本件注射事故による損害を賠償する責任を認め前記のとおり昭和三十五年十一月より原告の治療費を負担して自ら支払つてきたので、原告は穏便に話合うべく昭和三十六年十月十八日被告奥村医師を相手方として岸和田簡易裁判所に調停の申立をしたが昭和三十七年五月七日不成立となつたので本訴に及んだ。

被告等訴訟代理人等は原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め、原告の請求原因事実に対する答弁として各々次のとおり陳述した。

被告奥村の答弁。

原告主張一項の事実、二項の事実、三項の事実のうち原告が昭和三十二年四月四日診断の結果虫垂炎と診断されたこと翌五日被告三田医師より虫垂炎に対する手術が為されたこと、四、五項の事実のうち被告三田医師が右虫垂炎の手術に際し腰椎麻酔の注射をしたところ間もなく原告が左下肢疼痛を訴えたこと、その後被告奥村が右疼痛緩和のため原告に対し「イルガピリン」五本を注射したこと、原告が昭和三十三年七月十日より国立白浜温泉病院に転じたこと、六項の如き診断を記載の両医師が為したこと、七項のうち原告の症状が現在固定し最早これ以上の治療の方法がないこと、以上の各事実は認めるが、その余の事実はすべて否認する。右診断によつても明らかな通り原告の症状は著明な跛行ではなく補装具の使用により相当良好に歩行ができ、固より就労可能である。原告の右症状惹起につき被告等に施術上の過失はない。従つて被告奥村に民法第七一五条の使用者責任もない。

被告三田の答弁。

原告主張一項の事実、二項の事実のうち原告が被告奥村医師の診察を受け主張の頃より奥村病院に入院し治療を受けていたこと、三項の事実のうち原告が奥村病院に入院中被告奥村医師の診察を受けて虫垂炎と診断され、主張の頃に虫垂炎の手術を受けたこと、施行者は被告三田医師であつたこと、四項の事実のうち原告が右虫垂炎の手術に於て麻酔の注射を受けて手術を終了したこと、その後イルガピリンの注射を被告奥村医師より受けたこと、五項のうち原告の左足に或程度の麻痺が残つていること、八項のうち被告三田が奥村病院をやめた昭和三十三年四月末迄の間は原告が自己の健康保険により治療費の支払をしてきていたこと、十項のうち原告が被告奥村医師を相手方として岸和田簡易裁判所に調停の申立をしたが不成立となつたこと、以上の実事は認めるがその他の事実は否認する。

被告三田は原告に対する虫垂炎の手術当時医師の賃格を得てから約六年半を経ていて充分な技倆と経験を有していた。被告三田が原告に施した腰椎麻酔の注射に使用した注射液は〇、三%ベルカミン・エス注射液であり、注射をした位置は第三―四腰椎間、第四―五腰椎間のうちいづれかの腰椎間であつて安全部位である。屡々行つている注射であるから安全部位以外の場所に注射することは先づ考えられない。腰椎麻酔に伴つて生じる合併症には、腰椎穿刺後頭痛、馬尾症候群脳神経障碍、対麻痺、知覚障碍、腰痛、背髄炎、脳炎、脳膜炎、呼吸器合併症等があるが、腰椎麻酔を施せば何故このような合併症が生じるのかとゆうことは現在の医学、薬学では殆んどわかつていない。原告は対麻痺、知覚障碍等の合併症を起しているものと思われるが、原告と同様な合併症を起した事例が他の病院でも報告されている。原告の合併症が何故生じたかは解剖してみなければわからないことであり、仮りに解剖して原因がわかつたとしても腰椎麻痺の注射がどうしてその原因を生じるかは現在の医学では恐らく解明できない事柄であろう。被告三田は現在の医学に基いて原告に注射を施し、合併症を起した後の処置についても注射、電気治療等てぬかりなく行つたものであるから被告三田に全く過失はない。却つて原告は合併症を起して後被告三田らの事後処置を拒否したりして回復をおくらせたのである。

被告等の抗弁。

仮りに被告等に損害賠償義務があるとされるときは消滅時効を主張する。即ち原告は早ければ昭和三十二年四月末日頃には損害を知つていたものであるから、早ければ昭和三十五年四月末日、おそくとも昭和三十六年六月二十二日には原告の損害賠償請求権は時効によつて消滅した。

証拠<省略>

理由

被告奥村が医師で肩書住所に於て病院を経営しその院長であり、被告三田が被告奥村に雇われ右病院に勤務していた医師であること、原告は被告奥村医師より胸椎カリエスとの診断を受け昭和三十一年十二月三日より右病院に入院していたところ、入院中虫垂炎に羅り被告奥村医師よりその旨の診断を受け昭和三十二年四月五日その手術を受けたこと、その手術は被告三田医師が担当し同被告に於て原告に対し腰椎麻酔を為し虫垂炎手術を行つたことこの注射を契機として原告の左下肢に運動並知覚麻痺、筋萎縮等の症状を来すようになつたことは当事者間に争がない。

被告奥村に於ては真正に成立したことにつき争なく被告三田との間に於ては証人三浦米太郎の証言によつて真正に成立したことを認め得る甲第一号証、原告本人尋問の結果及びこれにより成立を認め得る甲第二号証、証人舌津直治良の証言及びこれにより成立を認められる甲第三及び第十四号証、鑑定人最上平太郎の鑑定の結果(鑑定書)並に同人の供述を綜合すれば次の諸事実を認めることができる。

(腰椎麻酔注射時の模様及びその後の症状)

原告は被告三田医師より高比重ベルカミン・エス一・五乃至一・八ccの腰椎麻酔の注射を受けたがその瞬間左下肢に飛上らんばかりの灼熱態疼痛を感じ思わず声を発したこと。手術後下腹部より下方両側下肢に亘つてシビレ感があり、又激痛のため同年四月十九日まで不眠がつづいたこと、その疼痛に対して同年同月七日、八日、十日乃至十二日の五日間イルガピリン三ccを臀筋外側方に仰臥位で被告奥村医師より注射を受けた(但し右のうち十一日は看護婦により為された)が手術後は両下肢は全く動かせず右趾がわずかに動く程度で同年五月五日頃から左下肢をひきづつてようやく歩き出せるようになつたこと。その後同年六月に国立大阪病院整形外科で同年八月五日頃に京都府立医大整形外科で診察を受け、昭和三十三年七月十日よりは国立白浜温泉病院に転院して治療を受けたが手術後より幾分好転を見た程度で昭和三十六年六月には白浜温泉病院の谷沢龍一医師より、又同年十二月一日には舌津直治良医師よりそれぞれ原告主張事実第六項記載の如き診断を受けたこと。現在の症状は次の如くであつてこの症状は固定し今後治癒する見込のないこと。

左下肢に著明な筋萎縮があり大腿(藤蓋骨上縁より十五糎上方に於て)右周径四十八糎、左周径四十五、五糎、下腿(腓腸筋腹部に於て)右周径三十四・五糎、左周径二十七糎を示し、このような強い筋萎縮と関連して随意運動に強い障碍があり足関節部の随意的運動は右側では背屈七五度、伸展一六〇度で正常であるが、左側では背屈一四五度、伸展一六五度で強い障碍が見られ歩行時に杖なしでは左足尖を地にひきずる如き歩行を呈し可成りの不自由さが窺え、膝蓋腱反射、アキレス腱反射は右側に梢亢進が見られるが左側は強度の滅弱が認められ、臍部より上半部及び正中線の右半側の下半部の知覚障碍は見られないが、左半側の下半部に於ては臍部の高さより左鼠蹊靱帯より下方約十糎に至る間は中等度の知覚鈍麻がありその知覚鈍麻帯下縁より膝蓋骨より約五糎上方に至る間は痛覚過敏を呈し、更にその痛覚過敏帯下縁より足尖に至る範囲は痛覚の強度鈍麻が見られ、身体背面に於ては鼠部、仙骨上部から左側下方大腿後面にかけて痛覚鈍麻があり、その鈍麻帯の下縁は膝膕中央附近に相当しこれより下方は強度の痛覚鈍麻が見られ、温覚、冷覚も痛覚と略々同様の範囲に於て鈍麻帯を形成すること、これら部位に於ける触覚には著明なる障碍のないこと。

そこで進んで右症状を惹起した障碍の部位、原因について考察するに鑑定人最上平太郎の鑑定の結果及び証人舌津直治良尋問の結果によれば次のことが認められる。

(障碍部位)

原告の前記症状より云えば左下肢の著明な筋萎縮、膝蓋腱反射の減弱から見れば障碍部位は腰髄第二断区以下仙髄に亘つていると考えられ、知覚障碍の点から見みば第十胸髄以下末端に亘る障碍があり、左下腿に強い知覚鈍麻が認められる点から見れば第四腰髄以下末端に至る強い変化があると考えられる。

而してその障碍部位が背髄内に在ると考えるときは神経組成構造上運動神経については中央正中線の左側の後、側索或は前角に知覚神経については右側の前、側索或は左側の後角附近に障碍を考えねばなない。このうち左側の後、側索或は前角と右側の前、個索とゆう相離れた二つの部分が同時に障碍を受けると云うことは本件の如き腰椎麻酔注射の場合にさような広範囲な障碍を惹起する可能性がない。従つて残る左側の後、側索或は前角と左側の後角部位の障碍が考えられるが、左側前角と後角との場合をとつて見ればその間は比較的隔つて存在するにも拘らず同時に障碍を受けしかもそれが一側にのみ止り右側に及んでいないと云うことの可能性は少いものと考えられ、又左側の後、側索と左側の後角との場合をとつて見れば両者は隣接した位置にあり同時に障碍を受ける可能性はあるが後、側索の障碍即ち錐体路の障碍を考えるときは完全損傷でない為痙性麻痺を起すと考えられるが本件原告の症状は弛緩性麻痺であり、又知覚障碍の点から見れば前記の如く左後角は第十胸髄以下背髄末端までのすべてに亘つて障碍されていることになるが、かような長い隔りの間左後角のみが障碍されると云う可能も少い。かように考究してくると障碍部位が背髄内に存在する。或は背髄節の左側より出ている前後根線維が硬膜外に出て腰並仙髄神経叢を作つて後の末梢神経に在るとすることの合理性は乏しく原告の症状より見て障碍部位は背髄末端の馬尾神経叢左側付近であり癒着性変化を生じているものと推論すべきである。

(障碍を生じた原因)

原告は右症状は被告等の施した腰椎麻酔とイルガピリンの注射に因るものであると主張する。

前記最上平太郎の鑑定の結果によれば、イルガピリンは神経痛等の疼痛を和らげる作用があり、この注射は屡々末梢神経麻痺を起すことがあるがそれは神経幹乃至その近傍になされた場合に見られることで、臀筋部では筋層が厚く下肢の運動知覚の主神経である坐骨神経或はその近傍にまで到底注射が到達するとは考えられずこの部位になしたイルガピリン注射が原告の前記症状の原因を為したものとは思料されず又注射部位に生ずるしこりにより足が動かし難いとの現象はごく一時的のものであるに過ぎないことが認められるのでイルガピリン注射が原告の現症状の原因であるかとの点は否定しなければならない。

然らば腰椎麻酔によるものであろうか。その場合に於ても麻酔に使用せる薬物が不純でなかつたか、穿刺の際には化膿菌が混入したのではないか、原告に麻酔禁忌の既存疾患はなかつたか、原告が麻酔剤に対し過敏状態を示す特異体質ではなかつたか、原告が麻酔削に対し過敏状態を示す特異体質ではなかつたか。手術操作中の神経系統の損傷によるものとすべきか等について考察しなければならない。これらの点に関し前記最上平太郎の鑑定の結果及び証人舌津直治良尋問の結果によれば次のとおり認められる。

常時よく使用される薬剤は病院等に於ては一度に多量購入されるもので、その薬剤の製造過程、アンプル内への封入過程に於て不純物の混入があり、又は保存状態の不適により薬剤の変化が起つたとするならば一本の注射液アンプルにとどまらず同じ包装中のものすべてに同じ不良状態が見られるわけである。そうすればこれらのアンプルを使用した結果は当然他にも原告と同様の症状を呈する患者が出たと考えられる。ところが本件に於てはさような事例も見受けられないので薬剤の不純を原因とすることはできない。

化膿菌の混入は当然化膿性脳背髄膜炎を起すことが考えられるが告原にはさような症状は見受けられなかつた。従つてこれを原因とすることもできない。

原告は右足の筋がひきつるので被告奥村医師より診断を受けたところ胸椎カリエスと診断されたので昭和三十一年十二月三日より入院したが、昭和三十二年四月五日虫垂炎の手術を受けた当時は平常の状態であつて後日X線像により第六胸椎の下縁にシユモール氏小体と呼ばれる陥凹が見られる外カリエスの所見はなく当時胸椎カリエスではなかつたことが窺われる。下肢がひきつる程の背椎カリエスと云うことであれば腰椎麻酔に対する禁忌症状の一つであつてさような状態に在る者に対する腰椎麻酔の施行は医師として戒むべき場合である。右シユモール氏小体とは背椎と背椎との間にある椎間軟骨組織が背椎骨の椎体内に嵌入することによつて生ずる軟骨結節であつてこの小体のあるものは屡々背腰痛の訴え又背髄膜炎を併発していることが多く、背髄膜炎を発しているときは勿論腰椎麻酔の禁忌であるがこれを発しておれば当然何らかの症状を呈していた筈であり、本件腰椎麻酔時に原告にさような症状なく背髄乃至その周囲に特に変化があつたと見られず、他に原告には腰椎麻酔時禁忌とすべき疾患があつたことが見受けられず、禁忌疾患を本件症状の原因として挙げることもできない。

原告は腰椎麻酔時に左下肢に激しい放散性疼痛を感じている。それは背髄根の刺激症状であり背髄神経根に何等かの障碍が加えられていることは事実と推定される。かような疼痛は通常背髄神経根に穿刺針が接触或は損傷した折に起ることが最も多く普通ではこのような疼痛を訴えることはない。従つて原告の場合前記障碍の部位より見て馬尾神経根を穿刺針が損傷したと見る可能性が高い、と同時に原告に見られる後遣症が広汎に及んでいる状態より見て単に穿刺のみが原因ではなく二次的に比較的濃度の高いベルカミン・エスが注入されこれが一層強く作用したことによるものと推定される。

ところが一般には市販のベルカミン・エスを腰椎麻酔に使用しても後遺する麻痺を起さないに拘らず或る場合に於てのみこのような症状変化を起すことがあり、この場合を特異体質に帰し或はビタミン不足とか、薬剤に対する過敏状態を以て説明せんとする傾向がある。かような薬剤に対する特異的過敏性を示す者の場合には注射が安全部位に為されたか否かに拘らず症状変化を呈する。原告の場合既に多年月を経ていて本件腰椎麻酔注射当時に於て右の如き特異的過敏体質であつたか否か不明であつて、これが原告の前記症状を招く原因でなかつたと断定することもできない。

以上要するに原告の腰椎麻酔注射によつて惹起された前記症状に対する医学上の合理的所見は、腰椎麻酔時に背髄未端の馬尾神経根を穿刺針が損傷しこの部分に麻酔剤が注入され馬尾神経左側附近に癒着性変化が生じたものと見る可能性が高い。しかし一方原告が薬剤に対し特異的過敏体質でなかつたとの点を否定し去る資料もないからそれが馬尾神経叢左側附近の癒着性変化の原因でなかつたとも云えないとのことに帰着する。

鑑定人最上平太郎の鑑定の結果(鑑定書)中には同鑑定人の腰椎麻酔の穿刺、薬剤の注入の際原告は激痛を訴えたかとの問に対し、被告三田は特に印象づけられることはなかつたと思う旨答えており、被告三田本人尋問に於ては痛いと云われたことは記憶があるが腰椎麻酔の折にピリツとした痛みのあることはちよいちよいあることなので特別のこととは思わなかつた旨述べているが、原告の場合単に背髄根を麻酔剤が刺激して起る一過性の現象ではなく前認定のとおり声を発し飛上らんばかりの灼熱感疼痛があり、手術後も数日その激痛が続きそれに堪えられず鎮痛のためイルガピリンの注射を五日に亘つて受けた程であるから、この点に関する被告三田の右各供述は措信し難く、右激痛を伴つた事実を軽視し得ない。

鑑定人最上平太郎の鑑定の結果によれば被告三田は五ccの注射器を使用し高比重ベルカミン・エス一・五乃至一・八ccに〇・一乃至〇・二ccの髄液を注射筒に自然逆流させて確認してから注入した旨答えている。証人舌津直治良の証言及び右鑑定の結果によれば注射筒に髄液が逆流してくることは即ち穿刺針が正しく背髄腔内に入つていることの証左であることが窺えるが、背髄液が流動している蜘蛛膜下腔内に針先が止つている限りは髄液によつて稀釈された麻酔剤が注入されても前記の如き激痛を生ずることは通常考えられないところであるから、この痛みを重視する限り被告三田の供述のとおり一旦針先は蜘蛛膜下腔に至り髄液が筒内へ逆流するのを見たわけであろうが更に針先は進み馬尾神経の中に達しそこへ麻酔剤が注入されたと見るべき可能性が極めて高いわけである。

<証拠>によれば、腰椎麻酔後合併症として頭痛、尿閉、血圧下降等を来すことは屡々経験するところであるが、背髄神経麻痺を来すことは極めて稀であるとして、教個の事例を掌げているが、前記のとおり原告が腰椎麻酔時に受けた激痛を重視し馬尾神経根を穿刺針が損傷し更に該部分へ注入された麻酔剤の作用によつて原告の症状が惹起されたと見るべき可能性が大であるからこれを原因と認むべく、薬剤に対する過敏性特異体質等に原因し稀に同様の症状を惹起する可能性なしとせずとしても本件に於てその可能性につき否定或は肯定すべきいづれの事情も発見し得ない状態たるに止るからかかる状態を以て右認定を否定する資料と為し難い。

以上によつて原告の症状は被告三田が腰椎麻酔の穿刺、注入を過つて為したことに基因するものと認める。

然らば被告三田は自己の過失に基き原告に対し与えたる損害あらばこれを賠償すべき義務があり、被告奥村は病院を経営し被告三田の使用者として被告三田の業務執行に生り生ぜしめた損害は同様賠償すべき義務がある。

損害について。

原告が本件虫垂炎手術の当時辻本織布株式会社の織布工であつたこと、被告奥村の病院に胸椎カリエスとの診断のもとに入院したのであるが本件手術当時は平常の状態であつてX線像によれば第六胸椎の下縁にシユモール氏小体と呼ばれる陥凹が見られる外カリエスの所見がなかつたことは前記のとおりであるから昭和三十二年四月五日為された虫垂炎の手術が順調に進み本件の如き経過に至らねば、同年五月一日より右織布工の勤めに復することができたと推認し得る。証人辻本正義の証言及びこれにより成立を認められる甲第四号証によれば辻本織布株式会社に於ける原告の給与は一反いくらの受取給で月間二十四日、五日働いて金一万円余の給料を得ていたこと、右会社との雇傭干係は昭和三十七年五月末迄存続していたことが認められる。原告は本件注射禍により就労することができず、昭和三十二年五月一日より昭和三十七年四月未日迄の五ケ年間に少くとも右月金一万円の割合による金六十万円の給料を得ることができたと認められ、原告はこの額の損害を蒙つたものと認められる。

右各証拠に原告本人尋問の結果を併せ考察すれば、原告は昭和七年五月五日生れの女性で、高等小学校二学年を中途退学し昭和二十一年四月より敷島紡績に女工として勤め、昭和三十一年四月より辻本織布株式会社に転じたもので、同女は今後共、織布工として働く意思を持つていたこと、辻本織布に於ては織布工に停年なく何時迄も勤めることができる状態であること昭和三十七年五月当時原告が右会社に稼動しているとすれば月に金二万円の給料を得られ、漸次その給料額は増加してゆくであろうこと、原告は昭和三十八年五月五日国立白浜温泉病院を退院し、澱粉工場やガソリンスタンドの炊事手伝として又現在ジユースカツプの紙器工場につとめているが、左足の既述の如き欠陥のため立ち仕事或は足に力を伴う仕事には長時間堪えられず、過労に陥れば足はむくみ、頭痛を生じ心季亢進すること、本件以前に於ては原告は健康体であつたことが認められる。昭和七年五月五日生れで普通健康体であつた原告の昭和三十七年五月当時の平均余命は厚生省作成の第十回生命表によつても四十年を下らないものと云うことができ本件注射禍なくば原告主張の如く今後二十五年間は織布工として稼動し前掲の月金二万円を下らぬ給与を受けることが期待し得たものと云える。原告は右可能稼働の二十五年間月金二万円に相当する労働能力のすべてを失つたと主張するが織布工として下肢を使用する労働に就くことは本件症状よりして不可能となつたものと解されるが、他種の労働の可能性まで奪われたとは云えないから原告は従来の労働力の三分の二を失つたものと解する。これによれば原告は今後二十五年間月金二万円の三分の二に当る金四百万円を失うこととなり、これをホフマン式計算法により中間利息年五分を差引き現在額に換算すれば金二百五十五万一千六十七円となる。この金額は今後稼働により得べかりし喪失利益の現在額と云うことができる。従つてうち金二百万円の損害請求は正当と認められる。

証人山本晃の証言、原告本人尋問の結果によれば、原告は徳島県下の貧しい農家の八人兄弟姉妹中の末子に生れ、昭和二十九年に父は死亡し、兄山本晃が郷里に在るがその兄は子供六人を抱えて貧しく民生保護を受けていること、原告は未婚であることが認められ、家貧しく若年より女工として将来の生計を立てるべく働いてきた原告にとつて本件症状により織布工として将来働く途をとざされたことは致命的で、故郷の兄は民生保護を受ける程の貧困で他に身を寄せるべき親類縁者もなく労働力の大半を失つた原告が今後の生活をしてゆくことは並大ていの苦労でない。原告本人の供述によれば現在三浦米太郎の厚意により同人方に月九千円を入れて寄居していることが認められるが、いつまでその状態が期待しうるかもはかられないこと、加えて本件虫垂炎の手術当時原告は二十五才の未婚女性で長期の入院療養生活のうちに婚期を失つたばかりでなく本件の如き不治の症状に苦しみ外見上著明な跛行に自らを醜と感じ婚姻生活を持つ望も恐らく縁遠いことと推測される。原告のかような精神的苦痛は甚だ深刻であつてこれに対する慰藉料は金三十万円を以て相当とする。

ところで被告等は短期消滅時効を援用するのでこの点につき検討する。

民法第七二四条の短期消滅時効は被害者が害損及び加害者を知つた時を起算点とするが、損害を知ることは加害行為が違法な行為であることをも合せ知ることであつて、前記のとおり被告三田から昭和三十二年四月五日腰椎麻酔の注射を受け虫垂炎の手術を受けた時より激痛を訴え本件症状を呈するようになつたのであるが右手術施行の四月末頃に右麻酔注射につき被告三田に医療行為として過失があつたことを原告が既に知つていたと見るべき証拠は本件に於て存在しない。被告等は更に昭和三十三年六月二十二日を起算日として主張する前記甲第一号証、証人三浦米太郎の証言、原告本人尋問の結果によれば、原告は被告奥村のすすめで不本意乍ら国立白浜温泉病院へ転院することとなり、その際身よりのない原告を庇護する立場で三浦米太郎、藤原、田所の三名が立会ひ、昭和三十三年六月二十二日に被告奥村に於て白浜温泉病院の入院手続をし、入院費用の外毎月原告の小使費として金二千円を支出するとの約束をし、転院加療してその後再び被告奥村病院へ復院するときにはこれを受容れることを確約する旨の覚書を作成していること、原告は昭和三十三年六月迄健康保険により医療を受け、同年十月末迄医療保護を受け、その後は被告奥村より治療費の支払を受けその後被告奥村より治療費の支払が打切られたので白浜温泉病院を退院することとなり、退院後しばらく同被告の借りてくれた旅館に二ケ月ほどを過し、その後三浦方に引取られるようになつたことが認められる。右認定によれば昭和三十三年六月二十二日被告奥村が三浦ら立会のもとに右約束をした当時の模様は原告の本訴症状が一向回復せずこの上なお長期間入院を継続されることに当感した被告奥村が原告に対し転院等適宜の処置を求めたに対し、孤独の原告を庇護する立場から三浦米太郎等が原告の為に転院するとも被告奥村に於て放置することなく、入院治療の資力もない原告を援助してくれるよう転院治療するもその効なきときは再び被告奥村の病院に復院することの保障を求めたものであつて、これを求めた原告側に原告の本件症状を惹起したことに関し被告等の医療行為に対する不信が、それに応じた被告奥村に単なる同情ではなく責任意識があつたであろうことは感ぜられるのであるが、医療行為の性質上通常一般の不法行為の場合と異り、その過失の有無は容易に一般人には知り得ないところであつて、右程度の事実を以て原告が被告等に対し本件症状が被告三田の医療行為の過失に基き損害賠償請求権を行使し得る場合であることを知つていた状態とは解し得ない。従つて被告等の抗弁は採用しない。

以上原告の本訴請求は、労働により得べかりし利益の喪失を主張する金二百六十万円全部、慰藉料のうち金三十万円について正当であるから、被告等は連帯して原告に対し金二百九十万円及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和三十七年六月十八日より完済するまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務がある。よつて原告の請求を右限度で認容しその余を棄却し民訴法第八九条、第九二条、第九三条、第一九六条を適用して主文のとおり判決する。(林義雄)

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